第9回:消費者教育「契約」を考える


中学三年生の授業現場から

「君がパソコンを買ったとしよう。いつ契約が成立すると思いますか」という先生の質問に、生徒たちは頭をひねっています。これは、大阪の中学校で、教師により取り組まれている「経済教育」の場面です。

次の4つの選択肢を板書して、生徒たちに選ばせます。

ア、 口頭で「買う」といい、それを受けてお店の人が手続きを開始したとき。
イ、 契約書に印鑑を押したとき。
ウ、 代金を支払ったとき。
エ、 商品を受け取ったとき。

正解は「ア」です。実際、全員がイ、ウ、エと答えて不正解でした。いつ契約が成立するのかを示す一例なのですが、「売る意思と買う意思が合致したとき」、つまり口約束だけで契約が立派に成立することを、生徒たちはだれも知りませんでした。

教師は続けます。「君たちが何かを買って、その契約を破棄できたケースはあるかな」。すると「いったんお金を払って靴を買ってから、同じ店で、もっと格好いい靴を見つけたので、すみませんが取り替えてくれませんかと交渉したら、あっさりと取り替えてくれたよ」、「インターネットで遊んでいたら、ゲームソフトの購入サイトがあり、間違えて購入希望をクリックしてしまって、しまったと思ったのだけれど、送られてきてから宅配便で返送したら、それで片がつきました」など、数人が経験談を語ってくれました。商品を購入したときに、簡単に返品できると、多くの子どもたちが思っているようです。

言い換えれば、売買という日常的な行為が「契約」であるということを、子どもたちのみならず、大人たちもちゃんと理解していないようです。その理由のひとつは、売り手の善意によって契約を破棄できるという経験が少なくないからです。経済の自由化、国際化が進むなか、「契約」の世界標準を理解しなければなりません。

「売買」という契約が破棄されるのは、売り手の善意によるものと、契約法に従い破棄されるケースとがあることを、子どもたちに認識させなければなりません。前者の場合には、なんの問題もないのですが、後者の場合には、買い手が損失を被ります。これからは後者の場合が増えることはほぼ確実だといっていいでしょうね。

子どもたちに「契約」のもつ意味を学習させることが大事だと思って先生は、上記の質問を生徒たちに投げかけたのです。

欧米は「契約社会」だといわれます。他方、日本は「信頼社会」なのです。口約束ですべてことが足りる、また口約束を破っても善意で対応してくれるという、独特の慣行が存在する国だったのです。信頼社会である日本では、契約という物々しい手続きは不必要だったのです。先の先生の質問で、「ア」と答えた生徒がいなかったのは、口約束が契約だなどとは、ほとんどの日本人にとって思いもつかないことだからです。

ところが、最近、信頼社会の土台が変化しつつあります。信頼社会が崩壊すれば、なにごとをも契約に頼らなくてはならなくなります。今、日本は信頼社会から契約社会への移行期にあるのです。今の子どもたちが大人になるころには、ほぼ完ぺきな契約社会になっているはずです。

数年前に、大学院法務研究科(ロースクール)という専門職大学院が新設され、毎年、5000人を超えるロースクールの学生が司法試験を受験し、3600名もの司法官(その大部分は弁護士)を誕生させる仕組みが出来上がりました。信頼社会日本では、大部分の人が弁護士のお世話にならずに、一生を全うすることができました。

「契約」の認識 アメリカでは当たり前

ところが、契約社会のアメリカでは、ホーム・ドクター(かかりつけの医者)と同じように、ホーム・ロイヤー(いつでも有料で相談にのってくれる弁護士)が必要なのです。不動産の賃貸、売買、遺産相続、お金の貸借、税務署との交渉など、お金にまつわることの一切合切が、弁護士の助けなしにはやりおおせません。いわんや、企業の買収や合併に際しては、有能な弁護士に交渉の一切を委ねなければなりません。

弁護士の時給はとても高いのですが、契約に不備があったりすると、後々、大損をしかねませんから、契約に伴うリスクを回避するには、高い料金を支払うのは避けがたいのです。次のような笑い話があります。地下鉄の車中で、旧友の弁護士に偶然出会った人が「やあお久しぶり。ちょっと相談にのってくれないか。ニューヨークの郊外に格好の物件があるので、買おうかどうか迷っているのだが」と相談したところ、約10分間、その物件の価格、周囲の環境、売り手は誰か、などを矢継ぎ早に質問した挙げ句に、弁護士は「そんなリスクの高い不動産を買うことは勧められない」と結論してくれました。その後しばらくして、弁護士から一通の封書が届きました。封を切ると、一枚の請求書が出てきました。請求金額は120ドル、但し書きに日付と併せて「15分間の相談料」と書かれていたそうです。

アメリカのような契約社会、契約の手抜かりで大損する可能性のある社会で、安心して暮らすには、弁護士に契約を代行してもらわねばなりません。日本もまたアメリカのような契約社会になることはほぼ確実ですから、先を見越して、文部科学省はロースクールの開設に踏み切ったのでしょう。でも、先のことはわかりません。日本は、相変わらず信頼社会であり続けるかも知れません。もしそうだとすれば、弁護士さんの仕事はそれほど増えないということになるのかもしれません。

それはさておき、金銭の支払い・受け取りが「契約」に基づくものであることを、子どもたちに理解させることを、これからの金銭教育の要とするべきではないでしょうか。日本語に「お布施」という言葉があります。お盆にお坊さんに来てもらって、仏前でお経を唱えてもらう。このサービスへの謝礼がお布施です。お布施の金額について、ちゃんとした決まりがあるわけではありません。お布施をもらったお坊さんは、その金額が多い少ないについて、感じるところがあるでしょう。でも、少なすぎるからといって、文句をいわないのが、お布施の原則なのです。事前に契約していないお金の授受がお布施なのですが、この種のお金の授受は、最近、少なくなったように思われます。

これからの金銭教育に必要なのは、サービスの価格がお布施ではなく、契約(事前の約束)によって決まるという考え方を、子どもたちに身に付けさせることです。モノには値札が付いています。サービスには値札が付いていません。たとえば、病院で支払う診療費のうち、お医者さんの技術料がいくらかなのかについては、あまり意識しません。昔の開業医さんに支払うお金は、お布施のようなものだったのです。「これサービスしておきます」というのは、「タダ」を意味していたのです。家計の支出に占めるサービス消費の割合は高まっています。サービスの価格は「契約」によって決まるという原則を、子どもたちに理解させる必要があります。

クーリング・オフという「セーフティ」

モノを買うということ、つまり売り手と買い手と「契約」をするということを中学三年生は学びました。次は、消費者保護法に基づく「クーリング・オフ」について、消費者教育支援センターの協力を得て学習します。

クーリング・オフとは、一定期間に限り、消費者から一方的に無条件で契約を解除できる制度のことです。訪問販売や電話勧誘、マルチ商法、エステティックサロンや語学教室など、特定の契約について法律で認められています。

中学生には、悪質商法の種類といった知識や理解ではなく、まず「なぜクーリングオフができるのか」という「考え方」を理解させることに重点を置かれた授業でした。

「学習塾に入塾の手続きをしたけれど、2,3日通って、どうも自分に合わないのでやめたい」「スポーツシューズを買ったら、別の店のバーゲンでもっと安いのを見つけた」「18歳のお兄ちゃんが高校を卒業し、バイクの免許を取りました。オートバイを購入したけど、その後、お父さんに反対されたので返した」。いろんなケースに対して、契約を破棄できるかどうか、生徒に考えさせます。そして、契約場所(どこ)、期間(いつ)、商品(何を)、金額(いくらで)、方法(どのように)買ったのか、クーリングオフができるかどうかの判断をするポイントを整理します。生徒は身近に起こりうる話にとても関心を寄せているようです。なんとなく、理解ができた生徒たちは、どうしてそのような決まりになっているのかについて話し合い(討論)をします。「契約」について理解をしたところで、最後は替え歌「われは海の子」「浦島太郎」「うさぎとかめ」などのメロディに合わせて(  )に当てはまる言葉を考えながら「クーリング・オフのうた」を大合唱です。

1、 ある日(   )さそわれて
話にのせられ(   )と
たのむと 約束したけれど

本当に これで いいのかな

2、 売ります 買います 書面書き
(   )成立 したけれど
やっぱり 私は やめたいの
クーリング・オフは どうするの
3、 私は 契約 解除する
はがきに書いて 配達記録
(  )以内に 出しましょう
コピーの保存も 忘れずに

「ついつい」「とつぜん」という言葉を考えさせることを意図していますが、「つられて」「つかまり」「ともだち」「とられて」など、さまざまな答えがでてきた。この理由付けが大事。つまり「頭を冷やしてもう一度考えてみると」ということで、じっくり考えることができる「通信販売」や「店頭販売」では適用されないことを、歌詞を考える手法を用いて授業実践を試みたそうです。

授業を終えて

金銭教育とは「使う」「貯める」をモチーフに教育をイメージしがちですが、今、自己責任が求められている賢い消費者とは、情報をうまく取捨選択して、主体的な行動ができるように育てることがもっとも重要ではないでしょうか。

授業を終えて、子どもたちは、知らなかったことを知る喜びを感じており、日常生活に結びついた学習教材、子どもの興味に根ざした適切な教材、そして多様な授業方法が、理解に繋がります。子どもたちが「ここで一言言いたい!」「へ~!そうだったのか」と身を乗り出す場面を多く組み込み、討論をさせることで、認識を深める。「このような消費者教育を通して、子どもたちに身につけさせなければならない力」つまり、発見する力、未然に防ぐ力、適切に対応する力の基礎を培うために、これからもこのような経済教育に関する有効な指導法の在り方を追求していきたいと授業を担当した教師は語っておられました。

執筆:泉美智子(いずみ みちこ)
子どもの経済教育研究室代表。
経済絵本作家として活動しながら私立大学(子どもの生活経済論)の講師を務める。主な著書に「調べてみようお金の動き」岩波書店、「はじめまして!10歳からの経済学」ゆまに書房、「日本経済学園指定教科書」日本経済新聞出版社ほか。児童文学者協会会員。